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本田慎一郎(理事)
当学会において、オリバー・サックス(Oliver Sacks)を知らない会員はおそらくいないであろう。彼は「レナードの朝」の原作者で「妻を帽子と間違えた男」やその他多数の著書で有名な脳神経科医である。
しかし、そのオリバー・サックスが2015年8月30日、この世を去った。享年82才であった。残念でならない。
彼の書いた著書から、人の脳と心の関係性について多くのものを学んだが、それ以上に、オリバー・サックスは、私(達)にとって特別な存在であった。
オリバー・サックスが特別な存在であったのは、患者の治療に関わる同じ臨床家として、患者の3人称的観察は勿論、患者の一人称記述を真摯に受け止め、患者の詳細な観察を記録し続け、そして病態を解釈していたという事実である。
Luriaは、患者の問題に向かい合うには、3人称的な外部観察を重視するクラシックサイエンス(古典科学)と、1人称的な内部観察、すなわち患者の身体が感じている意識経験の記述を重視するロマンティックサイエンス(記述科学)の2つの方法があるが、真の科学者は、そのどちらかだけというのではいけないと述べている。オリバー・サックスはまさにこの考えを踏襲し、生のある限り実践した。そして「真の科学的態度」によって得られたエピソードや考察の結果を、書物などの媒体を介して世界へ発信し続けた尊敬すべき臨床家である。
オリバー・サックスが私(達)にとって、特別な存在であった理由はもう1つある。それは、彼自身が様々な症例を観察する立場にあったが、自らも患者としての立場を経験したことによって更に一人称記述を深化させていった点である。彼は1974年にノルウェイの山中で転落事故にあい、大腿四頭筋腱切断という重症を負う。入院後、手術により外科的には治癒したが、なぜか「左足が自分のものとは感じられない。」、「自分の足が在ると感じられない」、「左足は消えうせてしまった。しかもあるべき場所ごとである。」、「動かし方がわからない」などの意識経験をする。これを彼は神経学的症候群の「内側」を経験したと語っている。残念なことにこの当時、オリバー・サックスの治療に関わった医療従事者には理解してもらえなかったようである。
「消された科学誌」みすず書房(1997)が出版されているが、ご存知だろうか。これは「科学的発見の歴史において忘れ去られた瞬間」をテーマに連続講演会が企画され、その際にオリバー・サックスらの講演した内容5編をまとめたものである。その中でオリバー・サックスは、「暗点-科学誌における忘却と無視」という短編を書いている。
彼が患者として経験した際の意識経験が他者へ受け入れてもらえなかった点について「暗点」という観点で批判的な検討をしている。認知神経リハビリテーションを実践するものにとっては、一読する価値があると考えているが、直ぐに読めない会員もおられることが予想されるので、内容のごく一部だが引用しておく。
「暗点」という言葉を神経学者が用いる場合は、知覚の断絶や欠落、ようするに神経の損傷によって意識の中にぽっかりと生じた空所を意味する。そのような損傷は、私自身の場合がそうだったように、末梢神経系のレベルから脳の感覚野のレベルまで、どんなレベルにおいても起こりうる。そのため、そのような暗点を抱えた患者が他人に向かって、何が起こっているかを説明することは極めて難しい。患者自身が、いわば経験を暗転化しているからだ。そのような患者の担当医や周囲の人間にとっても、患者が言っていることを理解するのは同じくらい難しい。というのも、それを聴く側の人たちも聞いたことを暗転化しがちだからである。このような暗点は、実際に経験したものでなければ想像すらできない(なればこそ私は、半ば冗談にではあるが、脊髄麻痺をかけられた状態で拙著『左足を取り戻すまで』を読むことを勧めるのだ。そうすれば、私がいわんとしていることを身をもって経験できるはずである)。
上記の太字の部分はわれわれ治療者に突きつけた患者の悲痛な思いが込められているように思う。
私たちは、オリバー・サックスの魂に自信を持っていえるだろうか。
『あなたが患者として経験した神経学的症候群の「内側」を私たちは理解し、それを含めた患者の機能回復のための治療を行っています。』と。
オリバー・サックス自身が著書「左足を取り戻すまで」の中で述べた一人称記述を最後に引用し、その奥深さを噛みしめ追悼の意を込めた行為とさせていただく。
「何が起きたにしろ、それは末梢の局部的、表面的な問題ではない。つまり、恐るべき沈黙、忘却、足に呼びかけることも、動かし方も思い出すことができないというのは、極めて根本的な問題であり、恐ろしいことに記憶、思考、意思の障害である。これは単なる筋肉の障害ではなく、私自身の存在そのものに関わる問題であるということである」。
日本の地より、オリバー・サックスの冥福を心よりお祈りさせていただく。(2015年9月2日)
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